定時運行
20数年ぶりにお客さんを乗せて走行しました。
ほんの50mほどの往復ですが・・・
先頭の機材が、アント。これで牽引します。電車自体は走行できませんから。
動き出しました。
アントの運転と電車の運転と2人体制になります。
立ち席は無いようです。
普段はクルマの駐車場になっている所を走行します。
信号機も作動させて本格的です。
感動って言うには、大げさですが、それでもなかなか大したものです。
保存会のみなさまお疲れ様でした。
20数年ぶりにお客さんを乗せて走行しました。
ほんの50mほどの往復ですが・・・
先頭の機材が、アント。これで牽引します。電車自体は走行できませんから。
動き出しました。
アントの運転と電車の運転と2人体制になります。
立ち席は無いようです。
普段はクルマの駐車場になっている所を走行します。
信号機も作動させて本格的です。
感動って言うには、大げさですが、それでもなかなか大したものです。
保存会のみなさまお疲れ様でした。
まずこの写真からご覧いただきましょう。
一般的な個宅用まつり提灯です。
昔からの店舗街や住宅地に多いです。また紅白幕も必携と言えましょう。
下記の画像はいかがでしょう?
町内提灯といわれ、町内ごと(30軒前後)に一基、道路を挟んで設置します。
みなさまのお近くに、このような町内提灯を設置しているところは、ございますか?
どちらも絶滅が危惧されています。
墓石に記してあった「先祖 安政3年6月28日」が、気になって(主に法名軸)少々調べてみました。
初代とされる(A)は、1845年(弘化2年)生まれ、1924年(大正13年)80歳で没。
この人より先に亡くなったのは5人ほどいるが、いずれも幼少時に亡くなったようです。
先般お伝えした「安政3年6月28日」の記事の、安政3年(1856年)6月28日に没した日?とされる先祖では無い可能性が高い。68年もの差がある。
68年と言えば、2~3世代分か?
言い伝え通り、Aはやり手だったので、初代として君臨したのだろうか?
それとも初代が子どもを亡くして墓を建てたその日付か?
とも考えたが、その日付では、初代はまだ11歳。
ついでに
2代目とされるBは、
1881年(明治44年)生まれ、1938年(昭和13年)58歳で没した。
3代目(C)は
1898年(明治23年)生まれ、婿養子で1939年(昭和14年)42歳で没。この人が先般の墓を建立した。
当時、代々墓がみすぼらしかったので、立て直しを決意。そして完成した1ヶ月後心筋梗塞で、一晩で亡くなったとか。
しかしなんで、先祖 安政3年6月28日と記したのか、分からない。
4代目は父、2014年(平成26年)90歳で没した。
他人の家系なんて興味も何もないですよね。失礼しました。
「Mさん、この新潟交通電車線に、SLが走ったことがあるのをご存じですか?」
「え、知りませんです」
かぼちゃ電車に詳しいM氏ですけどね~
この件については、小湊米吉氏の「大別當白山神社」(昭和63年版)に記述がある。
それによると、爆撃によって信越本線が攻撃された場合の新潟へ至るサブルートとして使えるか?を調べるために、
昭和20年8月に試験運行したのだそうです。
その後直ぐに戦争が終結したため、それ以降の走行は無かったそうです。
さらにM氏の解説によれば、走ったとしても割合小型のSLではないか?
理由はカーブがきついこと、堤防を走る区間が多いことなどだそうです。
当時は越後線もあったわけですし。
なんとも??なタイトルですが、
いつもお世話になっているTさんから見せていただきました。
これは、昭和37年9月10日付けの新潟日報。
校庭とは、月○中学校の校庭です。生徒たちが、ローラーで路面をならしている写真も付いています。
?と思われる方も多いと思われますが、当時の中学は広大な敷地があったこと。そして
16歳から乗れる軽自動車免許があったこと。
いわゆる自動車学校が近くに無かったこと。
などから実現したようです。
しかしその後、
完成したのか?どうなったのか?
当時、在籍したと思われる方、またその後に入学された方等に伺うも、記憶から消えているようです。
でも珍しい新聞記事でした。
初めて長岡駅に降り立ったのは、小6か中1の5月であった。
その朝、珍しく父が「三条まつりだすけ、行ってみるか?」
新潟交通電車で燕まで、その後国鉄弥彦線に乗って、北三条。
行き当たりばっ旅ですから、まつり情報も特になし。
祭り行列を眺めた記憶はありません。
そして「長岡に行ってみるか?」です。
東三条で連絡したのは、「急行佐渡」か?
で、長岡駅で下車して、駅前周辺を散策して、お昼も食べたのだろう。
帰路につくべく、切符売り場で、父は
「月潟まで」
「つきがた?」
「新潟交通電車のさ~」
係員はしばらく切符一覧を眺めていたが・・・・
なんとあったんですね。
それも裏側には連番?が振ってあるわけですが、その番号、0008でした。
しかしつまらないことだけ、覚えているんですね。
我が地域での電話の開通が明治44年で、交換業務が始まったのが大正14年。
では電気(電灯)はいつかというと、大正5年との記録が残っています。
電話と電気とは、わりと近い時期と言えますね。
ただ電話は、加入料が高かったし、各家庭の仕事等の関係から普及に時間がかかりましたが、電気はスンナリと加入が進んだようです。
次ぎに水道はというと。
ずっと遅れて、昭和37年10月1日に供用開始だったそうな。
これでやっと近代的な生活が出来るようになりました。
ちなみに下水道は、いまだに工事中です。
計画よりもずっと遅れているようです。
高齢者世帯が多くて、接続を渋るのが大きな理由のようです。
電話の歴史を調べていて、面白いことが分かりました。
当地月潟においてですが、
通常郵便業務の開始・集配→明治9年7月1日。
小包→明治32年2月1日。
電報→明治42年1月11日。
電話・通話→明治44年10月6日。
電話・交換開始→大正14年12月26日。
電話・自動交換→昭和44年10月24日。
その他、
郵便貯金は明治18年1月1日。為替は明治27年3月。簡易保険は大正5年。郵便年金は昭和4年。。
何が面白いかと言うと?
電話で通話開始と電話の交換開始とが区別されています。
通話開始って何?
まだ開通本数が少なかったから特には困らなかった?
でも、交換が出来なければ、電話の意義はないと言うものでしょう。
で、昭和初期頃の電話の普及台数は、33台ほどだったようです。
追記
電話の通話とは、郵便局に電話回線が開通したことを指すようです。
といっても、ステージは無かったし、映画の上映も無かった。過去の記事
かねてより清掃や改修が終わって作品として仕上がったと言うことであろう。
サブタイトルに冷蔵庫とある。つまり作家は冷蔵庫をイメージしたのであろうか?
あまりにも寂しい入り口。
ツアー風に解説が付いて始まったが、あまりにも暗いのでストロボを。
先回は見れなかった緞帳。
左端には「月潟劇場」賛江とある。
その協賛者は7名(社)。電話番号がなんとも素晴らしいです。
このライトは、作者が装着したようです。
当時の真空管やフィルム、ケースなど。
当時のベンチシート。なぜかストーブが・・・
床は土間。
質問攻めにあう美術作家S氏。いろいろ情報は仕入れたであろうが、なにせ若いので知らないことも多いようです。
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