関屋団九郎に在った木造の橋
新潟市関屋大川前、電鉄旧東関屋駅のやや南側の信濃川に木造の長い橋が架かっていた。
「知ってますか?」
「そんげん、あったかのう?」
「わからんのう」
「しらんのう」
・・・・・
「ああ、覚えてますよ」
「そうですか。それはよかった。で様子は?橋の名前は?」
「いつ頃まで在ったのか、地震の時までかな~。長かったけど幅の狭い橋でね~ 歩行者専用だったようですよ。向かいに大きな会社が在ったでしょ、その通勤用だったみたいですよ。名前は分かりませんね」
これ以上の事は、分かりません。
ご存じの方、教えてください。お願いします。
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コメント
記念館さま、こんばんは。
私の知識は皆さま以下です。
かえって新情報をいただきありがとうございました。
お役に立てずに申し訳ありません。
投稿: もうぞう | 2024/10/15 19:43
はじめまして、突然の書き込み申し訳ございません。
「関屋団九郎」という地名を調べておりましたら、貴ブログにたどり着きました。
団九郎を知る皆様からご教示いただきたいのですが、団九郎には以前、「守法軒」という飴屋があったそうです。(第一高校近く)名物は「越乃飴」という飴です。
些細なことでかまいませんので、情報がございましたらご教示お願いいたします。
投稿: 記念館 | 2024/10/15 11:53
長谷川さま、おはようございます。
古いこととはいえ、実体験の貴重な書き込みありがとうございました。
当時の写真でも残っていませんかね~
投稿: もうぞう | 2020/05/09 07:05
塩の橋 大変なつかしく思い起こしました。大昔、約60年ぐらい前のことです。当時小学生でしたが休日には橋を渡って魚釣りによくでかけていました。
橋げたもぼろかったですが敷いてある板がまたひどくて川面が見えてかなり怖かったのを覚えています。歩行者専用なのはもちろんですが歩くにつれ揺れたのが更に恐怖をあおられました(笑)
関谷地区のはずれの団九郎側から橋を渡りきったところにあった日軽金の巨大な工場脇を抜けていくのがいつものルートでした。
私もかっては団九郎もんでした。
投稿: 長谷川 | 2020/05/08 22:31
田中正茂さま、こんばんは。
いや~
2006年の記事が甦りましたね。
それに新情報もありがとうございました。
歳をとるのは、嫌がられますが、貴重な経験や体験・知識が豊富であるわけですから、大いに公表したいところです。
また機会がありましたら、ぜひコメントをお待ちしております。
投稿: もうぞう | 2020/01/05 18:38
こんばんわ!正真正銘の団九郎もんです。先ずは橋の名前から。「塩の橋」その通りです。これまでの記事に記されている内容も正しいものと思います。私の知らない事も有りましたが。一つだけ加えさせて戴きますと、この塩の橋の名前の由来にも成りますが、日本軽金属(株)は終戦後アルミニュウムの需要が激減した勢か、なんと日本海から塩水を汲み上げて工場内で製塩事業を始めたのです。出来島の工場から信濃川の木橋を通して、更に電車の線路、そして薬師神社の近くから昔あった掘割の辺りを(ちょっと定かではない)通り越後線も横断し、その先の昔有った関屋競馬場の西を通過し、砂丘地(今の関屋分水の辺り)に入り海岸まで口径100mm位の鉄管を延々と敷き、更に沖合100m位まで延伸してそこを海水の採取口にしていました。私ら関屋のガキ共は夏、海水浴の時にそのパイプに沿って泳いでその先端まで行って飛び込んだりして居ました。確か昭和26年頃まではそのパイプは有った様に記憶してます。「塩の橋」の本当の目的はこれだったのではないかと思います。私事ですが歳の勢か最近は生まれ故郷の関屋大川前が懐かしく、団九郎の本当の意味が知りたくてその検索をしていてこのブログに出会いました。今後とも宜しくお願い致します。
投稿: 田中 正茂 | 2020/01/04 21:02
蔵織さま、こんばんは。
こちらこそありがとうございます。
なかなか興味深い内容のブログのようですね。
これからもよろしくお願いします。
投稿: もうぞう | 2011/07/21 19:22
はじめまして、『塩の橋』の検索で、ここにたどり着きました。昔のことがよくわかりました。ありがとうございます。蔵織ブログ、表、裏ともにリンクさせていただきました。今後ともよろしくお願いいたします。
投稿: 蔵織 | 2011/07/21 11:52
伊藤/kin_iさん
興味深いコメントをありがとうございます。
大変参考になりました。
投稿: もうぞう | 2006/07/24 21:26
団九郎から架かっていた木の橋
小さな頃、祖母と渡ったことが記憶にあります。
橋の上におがくずがあったことを思い出します。
欄干の修理かなにかをした後だったのでしょうか。
父にこの橋の話を聞きました。
父はこの対岸の変電所へ行っていましたから。
(正確かどうか確かめるすべがありませんので
聞いたことをそのまま)
戦時中に陸軍工兵隊がつくったもので
関屋と日軽金をつなくもので、通称「しおのはし」
日軽金の橋で会社のものを一般の使用に供していたものだそうです。
幅はおとなふたりが並んでやっとくらいの狭いものだったようです。
昭和36年頃、帝石橋が使用できるようになって、供用を終了したそうで
「しおのはし」いつ解体されたかは定かでないとのことでした。
父が関屋駅前から出来島へ通っていたのは昭和38年春までですから
昭和36,7年あたりなのでしょうか
帝石橋が新潟市に寄贈されて、バスが通るようになってからというのが供用停止の時期なのかもしれません。
投稿: 伊藤/kin_i | 2006/07/24 21:04
玉井人さま、ありがとうございます。
調べて頂き感謝致します。
萬代橋も有名になりましたね。
投稿: もうぞう | 2006/07/23 20:30
輝ジィ~ジさま、こんばんは。
地震の前の日にね~・・・
ボート部だったのでしょうか?
いい思い出ですね。
ともあれ、地震まではこの橋が在ったと言うことですね。
投稿: もうぞう | 2006/07/23 20:28
「塩の橋」ですね
萬代橋の歴史も良かったら見てください
投稿: 玉井人 | 2006/07/23 12:03
ちょっと調べたら、違うかもしれませんが・・・
現代の「萬代橋(ばんだいばし)」の初代で同じ文字で「よろずばし」と言われていたころと「万代橋」と書いたころは木造だったようですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E4%BB%A3%E6%A9%8B
県外者の想像です。すみません
投稿: 玉井人 | 2006/07/23 11:56
39年6月15日(6月16日は…)ジィ~ジ授業サボって、白山からボート
(フォアだったかエイトだったか失念)で、団九郎から日軽金に架かる
〝塩の橋〟まで往復しました。但し歩いて渡った事は経験なしです。
その後 多分関屋分水工事着工との絡みで無くなったのかどうか?
遥か記憶の彼方です。
投稿: 輝ジィ~ジ | 2006/07/23 09:21
たむ1200さま、おはようございます。
「塩の橋」ですか。
ありがとうございました。
でもなんでこのような名称に?
そしていつ頃出来て、いつまで在った?
また壊れたのだとしたら、その後新しいのが出来なかったのか?
疑問は残ります。
投稿: もうぞう | 2006/07/23 06:24
「塩の橋」じゃなかったでしたっけ?
投稿: たむ1200 | 2006/07/23 02:06